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リリーのすべて (The Danish Girl) (2015)

1920年代に最初期の性別適合手術を受けた実在の人物(ただ世界初ではないらしい)、リリー・エルベの生涯を描いた作品。
これは事実をもとに書かれた原作(この時点で結構脚色がある)を再構成したものなので、色々と実際の話との違いは多いとのこと。
デンマークの自然、フランスの街並み等々、視覚的にも見どころは多いし、エディ・レッドメインとアリシア・ヴィキャンデルの熱演はさすがに圧巻だったが、マティアス・スーナールツも同様にいい存在感。

以下追記↓。
さて、全体的にとても綺麗で、いい映画だった。
LBGTの要素はもちろんなのだけれど、僕は「風立ちぬ」のような芸術家の悲哀をより強く感じたかも。芸術家とは、芸術と人生を切り離すことが出来ない人達だから、どちらかをより強調することにあまり意味はないのだけれども、いずれにせよ彼らは芸術故に幸福になり、芸術故に不幸になる。

主な登場人物は、(風景)画家のアイナーと、その女性としての名前、リリー
アイナーの妻であるゲルダもまた(人物を得意とする)画家、そしてアイナーの古い友人、画商であるハンスになる。
ハンスはスタッフロールでは七人目とか八人目くらいだったけれど、間違いなく重要な人物だった。

この映画では、自認する性と自己の境界線を描くと同時に、愛の対象の境界線をも凄く曖昧にしたところがあったのかなと感じた。まずデンマーク時代、アイナーがまだリリーとして生きる時間が少なかった頃、あるゲイの男性、ヘンリクと親しくなる。観客は一瞬、リリーが女性らしさを手に入れて、男性から美しい女性として認められたのかと思うけれど、そうではなくてヘンリクは、リリーがアイナー(名前を知らないにせよ男性)であることを既に知っていたんだよね。

それでヘンリクは、自分が好きなのは性別というよりもアイナー・リリーの内面であることを台詞にして伝えている。ただヘンリクが「アイナー」と声をかける前に、ヘンリクはリリーの股間に手を伸ばすのだけれど、この時点でヘンリクは相手の姓がどうあれ文字通り愛し合えるキャラクターとして描かれているのかなと思った。それは現実世界ではバイセクシャルに近いかなと思う。

多分この時代はバイセクシャルという概念が浸透していなかったので、妻であるゲルダは男性と出かける夫について終始、混乱するのだけれど(アイナーにすれば、自分は女性であるリリーとして男性と出かけている)、よくよく考えれば、ゲルダにも結構そういうところがあり、より女性に近づく夫を積極的に支援……というと変だが、進めていったのだ。伝え聞くところによると、このモデルとなった実在のゲルダは、どうやらレズビアンであったらしい。
彼女は確かにアイナーを愛していたように見えるし、アイナーを献身的に支えようともしていた。しかしこの夫婦は二人とも芸術家だから、人生と芸術を切り離すことが出来ないところに不幸があった。

「風立ちぬ」では、夫の芸術家としての身勝手さがとても悲しいのだけれど(ミリタリーを浪漫として考える人)、妻の容体が悪化したという手紙を受けて、列車に飛び乗むも、それでも飛行機の設計がやめられないので、泣きながら設計図を描き続ける、っていうシーンは、皮肉的だが身勝手な浪漫に覚えのある人の涙腺を刺激してやまない。

今作では、それはお互いがお互いを突き刺すようだった。ゲルダは、夫が夫で無くなることによって芸術家たりえる(という面もある)ので、ベッド上のリリーをデッサンする。これは優しくも、同時にとても残酷な目線だ。対してリリーは自らの求めるところのままにゲルダの側を離れていく。


そしてアイナーの幼少時代の親友であった、ハンス。彼も曖昧な境界線上にいた。
子供の頃、エプロンをつけたアイナーがあまりにもPrettyだったのでキスしてしまって、アイナーの父親に殴られたというエピソードを語るけれど、これもまた頑なな異性愛者として描きたいわけではないようだったし、「異質なものにとっては狭すぎる街」という台詞は、アイナー・リリーだけではなく、自分にも言い聞かせているようだった。

ボクシングをやって、がっしりとした肉体を持つハンスは、華奢なヘンリクとアイナーと違い、この映画の中で唯一画面上で迫力がある人なんだけれど、画商として成功して、海外を飛び回る彼があの肉体を維持するのは並大抵のことではないはずだ。それはある意味では肉体改造の一種であり、理想の自分に近づける苦行であり、アイナーの人生の長さ分の苦しみを、(恐らくは潜在的に)理解出来た。

映画の中、画面の中の絵、としてどう観客の目に映るか、という観点は、この画家のストーリーの中で重要な意味を持つことは言うまでもない。彼の身体はそれ自体が映画のヒントとして表れている。劇中、ハンスはちんぴらに絡まれて怪我をしたアイナーの傷を癒し、抱きしめて、再びキスをして見送った。彼もまたアイナーの内面を見ることの出来る人だった。

少し曖昧なんですけれど、確か列車に乗り手術に向かうリリーと別れる時に、「友達は少ないがそのうちの二人だ」というような台詞を言っていたようで、これって「リリー」と「アイナー」のどちらであれ友人であるよ、っていう意味かなぁと受け取ったんですが、多分単純にリリーとゲルダのことだったのかもしれませんね。まぁゲルダを食事に誘ったりしているので、彼はホモセクシャルではないと思いますけれど、映画の流れからは本当にゲルダに入れ込んでいたのかは微妙なところ、っていう印象を受けました。


この映画が一見おとぎ話的であるのは、原則から発展させて社会の中のキャラクターを作ったというより、そういった「人の内面を愛する」ことにピントを合わせたところ。あまり綺麗なもの以外はほとんど目に入ってこないし、唯一チンピラに襲われるくらいのシーンでもそんなにダーティではない。結果、映画の背景画面は常にボケて、顔のアップがほとんどのまま物語が進行する(これは監督の特徴でもある)。しかし被写界深度が浅く、ボケてはいても、背景は常に存在している。

LGBTという単語の連なりが出来たことで、多くの人がそれを意識するようになったけれど、その言葉もまた言葉としての定義を持たざるを得ず、そして定義ゆえに、曖昧さや変化を捉えきれない時もあるということ。ハンスは別に同性愛者として描かれているわけではないけれど、それでもアイナーのことを大事に思っていた。別に「バイセクシャルっぽい」って言ってもいいような気がするんだけれど、そもそもの問題として、もっとシンプルに「他人のことを大事に思う」ことを考えると、それを必ずしも性的な指向と結びつける必要はないよね、っていうような言葉にすると零れ落ちてしまうような曖昧さを、ハンス役のマティアス・スーナールツが丁寧に演じていたのが好印象だった。あまり彼への称賛を聞かないけれど、それはある意味ではエディ・レッドメインにも匹敵するような効果を持っていたんじゃないかな。

アイナー・リリーとゲルダは芸術家だから、自分と他人では自分を優先する人達だけれど、ハンスはエリートの画商でありながらも、他人への愛があるように見えた。「自分の人生を生きて」と口にしたリリーは、その時点で「ペインター」ではないのだけれど、それでも生き方は何かを作るという意味で芸術家だった。ゲルダとアイナーはお互いに依存し合っていたわけではないけれど、芸術家としてのゲルダは、非常に不安定な人をミューズとして成功した。
「リリーのすべて」という邦題はあまり適切ではない。
「The Danish Girl」という原題はリリーだけを意味する言葉ではないはずと思うので。

リリーの最期の時、庭へ車いすを押したのはハンス。
そしてリリーを一番近くで看取ったのは、ゲルダ。
アイナーとリリーの魂の象徴だったストールがデンマークの風に運ばれた瞬間をハンスとゲルダが見た。
それを追いかけようとしたハンスと、そのままでいいと言ったゲルダ。
映画のエンディングだけをとっても、ハンスの視点から見るのも大事なのかなと僕は思ったな。

あとは色々なところで言われているけれど、翻訳についてかなり問題があった。アイナーがリリーの状態では「~だわ」というような女性言葉を使うのだけれど、これはもう少し違うやり方があったのでは。それから翻訳ほどの大きな論点ではないけれど、口紅のようなアイテムを女性の象徴として捉えることは、現代の女性からは違和感があっても仕方がないかもしれない。時代背景もあるし、それは男性に必要な行為かもしれない。
それからアイナーとリリーは、ハンスやヘンリクといった人の視点からも読み解けるけれど、ゲルダの内面を描くためにはデンマーク時代の踊り子の友人であるウラをもう少し登場させたほうがよかった。
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[ 2016/05/18 23:00 ] Movies | TB(0) | CM(0)

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