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「海街Diary」と「マッドマックス Fury Road - 怒りのデス・ロード」

だいぶ前のことになるのですが、その日は二本続けて映画を見ることになりました。「海街Diary是枝裕和)」と「Mad Max: Fury Road (George Miller)」です。比較して記事を書いているのは、偶然同時期に見たという理由だけですが、一つの切り口として。結果的には、最初に見た海街の印象が、マッドマックスを上回ることは無かったのですが、ただし海街もいい映画であり、巨匠の映画でした。
この項ではやや海街に対して厳しいコメントになるかもしれないですが、僕はそのキャリアを通して吉田秋生のファンであることも最初に書いておきます。

海街では家族の姿は非常に曖昧に描かれています。話のキーとなる父親の存在は映画の中で一度も観客に見られるようなかたちでは出てきません。恐らくはそこに写っているであろう父親の写真を登場人物が見ながら、彼女たちがその懐かしさを語るだけです。
それに対してマッドマックスでは、理性も吹っ飛ぶような苛酷な環境の中で、文字通り生きるために必要な資源を確保しているイモータン・ジョーを家父長制のある一面を象徴していると見ている人が多いようです。これは家父長制という考え方について、果たして日本には欧米で言われているところの、その言葉をそのまま当てはめて良いのか?という切り口につながりそうですが、海街の父親からは、日本的な「責任の所在」についてもちょっと考えてしまいますね。
海街Diaryは確かに家族の映画だったけれども、現実的な家族の映画かと言われると色々な意味で首を傾げると共に、マッドマックスは必ずしも家族の映画ではないけれども、そういった権力の在り方を再生産していく姿がよく見えたように思います。

ところで吉田秋生は少女漫画家としては最も男性ファンの多い漫画家の一人で、「Banana Fish」等々では、文庫版の巻末解説に多くの著名人が参加しています。それは基本的にはBanana Fish海街は「」の話なのだからだと思うのですが、この海街ではそれはお金というかたちで表現されることが多いです。まぁ海街に限らず吉田作品の(現在の)読者は大半が成人でしょうから、分からなくもないのですが、個人的にはちょっと生々しくて、少年漫画の暴力を生々しく感じるのを喩えるとしたらこういうものかなぁ、と思っています。「吉祥天女」でしたら、その力の描き方は「海街」とはちょっと違うかなと。(Banana Fishに関しては前半はとても好きです。個人的な思い入れがあるのは「Lovers' Kiss」ですけれども)

映画版ではそのあたりは曖昧にされて、むしろ生活の枝葉というべきか、鎌倉という土地、自然をいかした映像の美によって、原作から切り取った小さなエピソードを積み重ねながらも、全体を貫く一つの幹として、異母姉妹の一番下、すずが新しい家庭に馴染むまでを再構成したものです。その中で、長女、次女、三女のそれぞれの生き方がしっかりと描かれているのはまさに巨匠のバランス感覚だなぁという感じです。キャスティングも見事で、隙がありません。

これはマッドマックスにもつながるのですが、「何も起こらない映画」っていうのはまぁ無いわけで、海街の映画の中で起きているイベントというのは意外と数多く、バラエティに富んでいます。それにしてはこの二つは極端にいうと「何も起こらない映画」として、片方は静かな映画として、もう片方はひたすらアクションの映画として記憶されてもいたようですし、その気持ちは分かる、っていう人は多いのではないでしょうか。

海街では、全体を「」のイメージが覆っているのですが、その中で「」として、二人の人物が桜並木を自転車で駆け抜けるというシーンを持ってきました。これは自然、青春、自由を表す重要な、かつ、細かいこと抜きに非常に美しいシーンでした。

マッドマックスでは、全体はとにかく「」「」「」という感じなのですが、中間部、窮地を脱したあたりでの老婆たちとの会話はまさに「」です。ここは作中で最も感動的なシーンだと思うのですが、フュリオサがある理由から砂漠をバックに慟哭するあたりです。この「静」のシーンに、マッドマックスはいくつかの非常に重要な示唆と比喩をもってきました。世界観の説明もそうですが、涙を誘うのは「種」についての会話です。
この「静」を味わうと、マッドマックスを単純な「動」の映画とは言えなくなります。ちなみにこのフュリオサの慟哭と、種を見せる会話の二か所がマッドマックスでうるっときたシーンでした(正直なところをいうと、あのドラムフレーズや、ギターのキャラとかはそんなに好きでもないんですが)。

もちろんこの二か所は、映画としての流れのアクセントであるだけでなく、それ自体が一つの重要なシーンですが、そのあり方について、やはり海街の「美」というのは、ちょっと「美」そのものに頼りすぎているかなと。それに対して、マッドマックスでは砂漠の中でどろどろの人物が何故あそこまで説得力をもって見えたのか、それは未だに僕の中に残っています。結果的に、一定の緑化を保っている最終目的地において、あの種がどのような役目を果たし得るのかはわかりませんが、汚染されていないナイーブな種があの環境に耐えられることを祈るのは、それだけでマイノリティたちの歴史の流れを思わせる、辛い希望です。緑の地を、僕ら自身がどう考えてきたかということです。



最後に(上述の二つ以上に関係ないのですが)同時期に公開された「ラブライブ」の映画版についても少しだけ。

ラブライブ」はG'sマガジンという雑誌で連載がはじまり、その後アニメやドームライブまでたどり着いた近年屈指のビッグタイトルでした。もちろん劇場にも多くのファンが駆けつけることは予想されていたのですが、興行的に(少なくとも瞬間的には)、上記の二作品を抑えての一位はかなり意外なものとして受け止められたようで、邦画界からは驚きの声があったようです。

個人的には単にラブライブのファンというより、元々シスター・プリンセス以来のG'sマガジンの読者ですので、あまり言いたくはないですが、映画製作に関して大きな困難があったことが見受けられる中途半端な出来栄えだったと感じています。やはりお金、出資者の問題、つまりスタッフが好きなことを作れるか、というのが大きな問題です。
それは間違いなくマッドマックスが抜きん出ていて、日本のアニメからも押井守作品以外にそういうプロダクションが育って欲しいという思いがあります。まぁ現在の押井監督に「好きに作っていいから、好きなだけお金使ってよ」って言える人もそうそういないとは思いますが…。その意味では「ラブライブ」にこそ監督自身が一貫した製作を行って欲しかった…というのが、後出しですが、そう感じます。監督としての円熟がどこにあるのかを現在の視点から推しはかることは出来ませんので、高畑勲監督の「かぐや姫の物語」のような自由な作品がいつ生まれるかは分からないのですが…(まぁ予算管理が大事なのは当たり前です…)。

それから、TVシリーズが存在していたのですから当然といえば当然ですが、「ラブライブ」は一つの映画として見ることは出来ません。「コンテンツの一部」です。それを見落としたまま、何故ラブライブに負けたのか、というようなことを考えるのはやや足りないかなぁと。

しかし僕自身、「コンテンツの一部としての映画」と「ただ一本の映画」との鑑賞について、その区別を上手くつけられないでいるのです。上記の三作品でどれが記憶に残ったかを一言で言う事は難しいですね。まぁ映画的完成度でいえばマッドマックス以外ありえないのですが…。海街は十分な佳作ですが、長く記憶されるかというとちょっと僕にはわかりません。コンテンツの引き際を見た、という点ではラブライブの取り組みは、それだけでぐっとくるのは確かです(それにしては映画の七割くらいはけっこう辛い感じでしたが…)。

そのあたりは今後の、特にアニメ系映画への自分への課題としておきます。
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[ 2015/10/10 00:00 ] Movies | TB(0) | CM(0)

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